吉川英治について

 吉川英治は明治25年(1892)に横浜で生れました。

 苦難の青少年時代を経て、大正12年(1922)の関東大震災をきっかけに30歳を過ぎてから作家の道を志します。

 その作品は、自らの人生の苦難を背景に、庶民に寄り添った、庶民のための“大衆文学”として花開き、作家転身から間もなく人気作家となります。

 生涯に長編・短編合わせておよそ240作品を世に残し、多くの人に愛されたことから“国民文学作家”とも称されました。

 その人生に根ざした「我以外皆我師」「朝の来ない夜はない」といった言葉は、本人の座右銘であっただけでなく、今でも多くの人の心に力を与えています。

 昭和37年9月7日、70歳でその生涯を閉じました。

吉川英治年譜抄

年代 生活・作品
明治25 (1892) 8月11日、現在の横浜市に父・直広、母・いくの子として誕生。
本名は英次(ひでつぐ)。
明治36 (1903) 家運傾き、小学校を中退、商店に奉公に出される。
以後、家計のため多くの職を転々とする。
明治39 (1906) 家運小康、この頃盛んに文芸雑誌への投稿を行なう。
明治43 (1910) 勤務先の横浜ドックで作業中転落し重傷。
歳末、その治癒を契機に苦学の決意で上京する。
大正元 (1912) 井上剣花坊の柳樽寺川柳会に入り、『大正川柳』同人となる。
大正3 (1914) 『講談倶楽部』の懸賞小説に「江の島物語」一等当選。
大正7 (1918) 3月、父直広死去。
大正9 (1920) 商機を求めて関東州大連に渡る。
大正10 (1921) 母いく危篤の報に大連から帰国するも、6月死去。
講談社の懸賞小説に「でこぼこ花瓶」「馬に狐を乗せ物語」他が当選。
大正11 (1922) 東京毎夕新聞社入社。
社命により初めての新聞小説「親鸞記」を連載。
大正12 (1923) 赤沢やすと結婚。
関東大震災に被災。それを転機として文学に専心する決意を固める。
大正13 (1924) 複数の筆名で講談社の諸雑誌に「剣魔侠菩薩」(『面白倶楽部』)などを発表。
大正14 (1925) 講談社から新創刊の『キング』に初めて《吉川英治》の筆名で「剣難女難」を連載。
他に「神州天馬侠」(『少年倶楽部』)。
大正15 (1926) 『大阪毎日新聞』に「鳴門秘帖」を連載、人気作家の仲間入りする。
昭和2 (1927) 園子を養女とする。「江戸三国志」(『報知新聞』)。
昭和5 (1930) 家庭不和から出奔、温泉地などを転々として暮らす。
「梅颸の杖」(『文藝春秋オール読物号』)。
昭和9 (1934) 「恋山彦」(『キング』)「親鸞」(『名古屋新聞』他)「松のや露八」(『サンデー毎日』)
昭和10 (1935) 自ら会長となり《日本青年文化協会》を設立。赤坂区表町に転居。
「宮本武蔵」(『朝日新聞』)「新編忠臣蔵」(『日の出』)。
昭和12 (1936) 毎日新聞特派員として北支従軍中、やすとの離婚成立。
9月、池戸文子と再婚。「吉野太夫」(『週刊朝日』)。
昭和13 (1938) 《ペン部隊》で菊池寛らとともに揚子江溯江作戦に従軍。
その帰路、長男誕生の報を受け、菊池寛により英明と名付けられる。
昭和14 (1939) 「新書太閤記」(『読売新聞』)「三国志」(『中外商業新報』他)
昭和15 (1940) 3月、次男英穂誕生。
昭和17 (1942) 1月、長女曙美(横山大観命名)誕生。
8月、朝日新聞特派員として日本占領下の南方圏を一巡。「上杉謙信」(『週刊朝日』)
昭和19 (1944) 3月、都下吉野村(現青梅市)へ疎開。
4月、急性肺炎に倒れる。
昭和20 (1945) 3月、東京大空襲で勤労動員中の養女園子が消息不明となる。
8月、終戦。その日から2年にわたり筆を絶つ。
昭和25 (1950) 4月、『週刊朝日』に「新・平家物語」連載開始。
以後7年にわたりその執筆に専念する。
6月、次女香屋子誕生。
昭和28 (1953) 3月、菊池寛賞を受賞。
8月、青梅から品川区北品川に転居。
昭和31 (1956) 1月、朝日文化賞受賞。
10月、高松市の菊池寛銅像除幕式に出席。
「The Heike Story」(「新・平家物語」英訳)が刊行される。
昭和32 (1957) 4月、徳川夢声らとともに昭和天皇と懇談。
5月、渋谷区松涛に転居。
昭和33 (1958) 1月、『毎日新聞』に「私本太平記」連載開始。
6月、港区赤坂に新築した家に移る。
昭和35 (1960) 11月、文化勲章を受章。
昭和36 (1961) 10月、健康が悪化、『日本』に連載中の「新・水滸伝」を中断して入院、肺癌摘出。これが絶筆となる。
昭和37 (1962) 1月、毎日芸術大賞受賞。この賞金を基金に吉川英治賞を創設。
2月、長女曙美結婚。7月、癌再発して入院。
9月7日死去。享年70歳。その遺骨は多磨霊園に眠る。
墓碑の設計は谷口吉郎。
昭和42 (1967) 前年、吉川英治賞が財団法人吉川英治国民文化振興会に移管され、この年、新生吉川英治賞の第一回受賞者が発表される。
昭和52 (1977) 3月、吉川英治記念館開館。

吉川英治の主な作品

初期:デビューから大人気作家へ
「江の島物語」
作家となる前に懸賞小説に応募して一等となり、初めて活字化された作品。江の島の弁財天にまつわる悲恋と仇討ちの奇譚。
「剣難女難」
剣難女難 初めて“吉川英治”のペンネームで書いた作品。剣は見るのも嫌いという美男子の主人公が、その美貌ゆえに女性関係に悩まされながら、兄の敵を討つために剣の腕を磨いていく。
「鳴門秘帖」
鳴門秘帖 作家デビュー後初めての新聞連載小説で、連載中から映画化されるなど、吉川英治を大人気作家に押し上げた作品。身分違いの恋から、流浪の身となった主人公が、かつての恋人のため隠密としての本領を発揮し、江戸、大坂、阿波徳島を舞台に奮闘する。
「神州天馬侠」
神州天馬侠 吉川英治の少年少女小説を代表する作品。織田・徳川連合軍によって滅ぼされた武田勝頼の息子・伊那丸が、信頼できる仲間たちと甲斐武田家の再興のために苦闘する。
「牢獄の花嫁」
指を切り取られた謎の女の遺体が発見され、その下手人として息子が捕縛されてしまった元同心が、その疑いを晴らすため必死の捜査を繰り広げる。
「恋山彦」
恋山彦 柳沢吉保らの権力の横暴により追い詰められた一人の美女がたどり着いたのは木曽の山奥にある平家の隠れ里であった。しかし、そこにも権力の手が及んだ時、隠れ里の若き頭領・伊那の小源太が立ち上がる。
中期:国民的作家へ
「親鸞」
親鸞 浄土真宗の宗祖親鸞の一生を描く。吉川英治には、この他に「親鸞記」「若き親鸞」と親鸞を書いた作品が合計3作品ある。
「松のや露八」
幕末の動乱期に旗本から武士を捨てて幇間になった実在の人物をモデルにした作品。「宮本武蔵」のネガ的作品とされる。
「宮本武蔵」
宮本武蔵 宮本武蔵の成長を関が原の合戦から書き起こし、巌流島の決闘までを描いた作品。
「三国志」
三国志 「通俗三国志」を下敷きにしつつ、そこに日本人の感性を持ち込んだ日本の「三国志」の古典。
「新書太閤記」
新書太閤記 吉川英治が終戦のその日まで書き続けた作品。終戦による断筆により一旦中断したが、戦後「続太閤記」を書き、現在の作品はその両者を合わせたもの。
後期:歴史絵巻へ
「新・平家物語」
新・平家物語 平清盛の青年時代から書き起こし、権力争いや戦争の諸相を描き、その中で「人間の幸せ」とは何かを問うた作品。
「忘れ残りの記」
吉川英治が作家となる直前までを描いた自叙伝。
「私本太平記」
私本太平記 戦前の皇国史観の中ではタブー視されていた足利尊氏を主人公に「権力の魔力」について描こうとした作品。完結した作品としては吉川英治の最後の作品となった。
「新・水滸伝」
吉川英治の絶筆作品。作品連載中にガンに倒れ、作品を再開できぬまま世を去った。