よくある質問

吉川英治は本名ですか。

吉川英治の本名は「吉川英次(ひでつぐ)」です。

異母兄がいるため「次」の字が使われたようです。

作家デビュー後は、当初、「朝山李四」「中條仙太郎」「望月十三七」など複数のペンネームを用いていました。

その彼が、講談社が新創刊する雑誌『キング』に創刊号から連載をすることになった際、担当編集者から「『キング』は講談社が社運を賭けて創刊する雑誌だから、君もペンネームではなく本名で勝負せよ」と言われました。その言葉に納得した彼は、その連載作品である「剣難女難」を本名の「吉川英次」で書くことにしました。

ところが、この「吉川英次」が「吉川英治」と誤植され、そのまま出版広告に出てしまいました。

それを見た彼は、こちらの方が座りが良いと、その誤植された名前を筆名にすることにしました。

この作品が評判となり、また雑誌『キング』も日本初の100万雑誌になるなどしたため、やがて「吉川英治」にペンネームを統一しました。

「我以外皆我師」について教えてください。

この言葉は吉川英治が座右銘としていたもので、表記には「吾以外皆吾師」としたり、末尾に「――也」とつけたりしたものもあります。

吉川英治の造語とされています(異論もありますが、今のところ典拠を示しての反論がないので、このように考えています)。

意味は文字通りのものですが、ここには、家庭の事情から小学校中退という学歴しかなかった吉川英治の人生観が現われています。

吉川英治「新書太閤記」の『大坂築城』という章に、このように書かれています。

秀吉は、卑賤に生れ、逆境に育ち、特に学問する時とか教養に暮らす年時などは持たなかったために、常に、接する者から必ず何か一事を学び取るということを忘れない習性を備えていた。

だから、彼が学んだ人は、ひとり信長ばかりでない。どんな凡下な者でも、つまらなそうな人間からでも、彼は、その者から、自分より勝る何事かを見出して、そしてそれをわがものとして来た。

――我れ以外みな我が師也。

と、しているのだった。

これこそが、吉川英治の人生に対する処し方でした。

《草思堂》とは何ですか?

吉川英治記念館では《草思堂》という名称をよく用いています。

そのため、「どの建物が《草思堂》ですか」とお尋ねいただくことがありますが、これは建物の名前ではありません。

これは、吉川英治が用いた雅号のひとつで、例えば随筆集のタイトルとして「草思堂随筆」のように用いられてきたものです。

元々は≪草紙堂≫と表記していました。

『草紙』とは主に江戸時代に刊行された絵本や絵入り小説本の総称ですから、「大衆的な小説を書く者」というような意味合いで使い始めた雅号でしょう。

やがて、昭和10年頃、ちょうど「宮本武蔵」執筆の頃から《草思堂》の表記に替えています。

“お通さん”や“又八”は実在の人物ですか?

吉川英治の代表作「宮本武蔵」の主人公である宮本武蔵は実在の人物です。

作品中には、その宮本武蔵の幼馴染として本位田又八とお通が登場します。この2人は吉川英治が創作した人物です。もちろん、又八の母親であるお杉も架空の人物です。

ただ、吉川英治が宮本武蔵の郷里とした宮本村(現在の美作市)には“本位田”という姓は存在しています。そのため、同地出身で「宮本武蔵」連載の当時、東大の教授であった本位田祥男から「私の先祖に“又八”なる人物はいない」と抗議されたこともあります。

吉川英治の《名言》について教えてください。

何をもって≪名言≫とするかは、その人の心次第です。『吉川英治の名言』というものがあるのではなく、吉川英治の著作を読んだ人の心に響いた一節が、その人にとっての名言となるのだと思います。

ただ、ある言葉が吉川英治のものかどうかを調べるのであれば、下記の書籍を利用するのが簡便です。

「真実と希望の書」(川端康成監修 1967年8月30日 番町書房)

「いのち楽しみ給え」(吉川英明編 2002年9月5日 講談社)

なお、自費出版ですが、下記の書籍もあります。当館でも販売しています。

「吉川英治至言集」(南條憲二編 2010年2月10日)